美しい文章と言うのは自然にできるものなので、意識して書くことが難しいのです。

俺というのは、やはり歴史的なポジションの取りかたから、所属を公開する代わりなんとなく参加した界隈の雰囲気で周りから“〇〇にいる“とされる、「空気の大学」戦略を取っている“和大生“であったのだが、慶應からの解放を謳っていた頃から基本的にネイションの目標は変わらないし、この路線はしばしば実態を伴わない危ない橋を渡ることが求められるが故、一歩間違えばかつてあったように「壁の中で敵に囲まれる」リスクも高いのだ。その「構造の背景の違い」は一応面倒な説明を避けるために「茶番の文脈」ということになっていたのだが、運用の違いだけを逆手に取り、運用思想を通じて守り抜きたい権益、これこそ逸見NGウェイが「個人のナショナリズム」と呼んでいるようなものについては悪意の無理解の塊のような人物に利用されそのプロパガンダから「関東」、もちろん地理上の分類の関東地方全体ではなく具体的には逸見NGウェイが堤清二の文化的ネイションとか渋谷圏と呼んできたものであるのだが、での人望も失われたことを悟りり亡命を決意した。深夜23時、追っ手を撒く為に世田谷通りから多摩川を渡り、川崎横浜御殿場沼津と370km先のファミレスで大阪府立大学での束の代数的構造素因数分解の一意性のセミナーに潜ることを思いつき、無理解というかただの無知故に人間が敵側に付いている現状を覆す為にユニフロ(United Front)のNTをいかに祭り上げるかを考えていた。

違うんだよなあ…